



冒頭の漫画で描いたのは、助手席に置いた訪問カバンの重みで鳴り出した、車のシートベルト警告音に対する私のちょっとした一人芝居だ。
執拗に鳴り響く「ピー、ピー」という不快な電子音。そこで機械の誤動作に対してイライラと毒づくのではなく、私は「私をだまそうとするとは、お主も悪よのう」と、時代劇の悪役になり切ってニヤリと笑ってみせた。
だが私は、その時ふと思った。「これは介護現場のナースコールと同じではないか」と。
この「お主も悪よのう」という言葉は、現場で鳴り止まないナースコールや離床センサーの音に追い詰められたあなたを救う、最強の「呪文」になるはずだ。
警告音は、あなたを操る「悪代官」である
ナースコールや離床センサーの音は、利用者の安全という「絶対的な正義」を盾にして、あなたの平穏を奪いに来る。それは単なる親切な合図などではない。
あなたの脳をハックし、交感神経を無理やり叩き起こし、「早く来い!」「言う通りに動け!」と強要してくる「悪代官」の命令なのだ。
教科書は言う。「音は利用者のSOSの合図だから、真摯に受け止めなさい」と。だが、その「真面目さ」こそが、音に心を完全に支配され、精神をすり減らす(アラーム疲弊)最大の原因となる。
ここで、あの漫画の言葉を思い出してほしい。「お主も悪よのう…(私をこれほどまでに焦らせ、イライラさせるとは、大したもんだ)」。
「共犯者」の余裕:音と自分の間に、悪巧みのスペースを作る
音に対する怒りや焦燥感を、無理に抑え込む必要はない。「その音の邪悪さ」を、あえて愛でるのだ。これが、プロとしての生存戦略の落とし所である。
音が鳴った瞬間、「ああ、またあの人が鳴らした!」「もう嫌だ!」と被害者になってはいけない。心の中でこう呟くのだ。
「ほう、またその不快な音で私の心を揺さぶりに来たか。お主もなかなか、悪よのう…」
この呪文を唱えた瞬間、あなたは「音に追い立てられる哀れな被害者」から、「音の仕掛けを鑑賞する余裕を持った演出家」へと立ち位置が逆転する。
音という刺激に対して、「真面目に応答する」という契約を一方的に破棄し、自分も「したたかな悪役(共犯者)」として、その状況を密かに面白がってしまうのだ。
「したたかな沈黙」という復讐
車のシートベルト警告音を止めるためにベルトを締める(あるいは荷物をどかす)のは、安全のためだけではない。あの騒がしい「悪代官」を黙らせ、自分の勝利を確定させるための儀式だ。
介護現場でもまったく同じである。鳴り止まないコールを止めるとき、あなたは「自己犠牲の奉仕」をしているのではない。「はいはい、分かったよ。お主の負けだ(これで静かになれ)」と、心の中でニヤリと笑いながらボタンを押す。
この「精神的な優位性(マウント)」を密かに保つことこそが、アラーム疲弊から自分の心を守るための、泥臭くも現実的な解毒剤になる。
結び:現場を「悪巧みの舞台」に変える
介護現場という理不尽な舞台で、清廉潔白な「聖人」を演じ続けるのは土台無理な話だ。音に追い詰められ、時に殺意を覚えるほどの黒い感情を抱く自分を、「お主も悪よのう」と笑い飛ばしてしまえばいい。
警告音という「外部からの悪」を、自分の内なる「したたかさ」で包み込む。その一瞬のニヒルな微笑みが、鳴り止まないノイズの中に、あなただけの小さな静寂(サンクチュアリ)を作り出す。
コールの向こうには不安や苦痛が渦巻いている。だからこそ、音に人格を飲み込まれないための”遊び”が必要になる。







