「…重い、上がらない」
入職2週間目。ハルの腰は、すでに悲鳴を上げていた。目の前には、ベッドからずり落ちそうになっている大柄な井上さんがいる。ハルは必死にわきの下へ手を差し込み、歯を食いしばって引き上げようとした。
(…何で、こんなに重いの)
80キロの質量は、もはや人間ではなく、巨大な泥の塊のように感じられた。力を入れれば入れるほど、井上さんの身体はシーツに張り付き、ハルの指先は白くこわばっていく。
自分の筋肉が限界まで引き絞られ、ブチリと音を立ててちぎれるのではないかという恐怖が、背筋を走った。
質量という名の暴力
不意に、背後に気配を感じた。「ハル、力で勝とうとするなよ」
背後から飛んできたのは、静かだが、突き刺さるような言葉だった。夜勤リーダーの北条が、冷たいコーヒーを片手に、壁に寄りかかっている。彼女の視線は、ハルの震える腕ではなく、その「腰」に向けられていた。
「お前は今、地球と喧嘩している。井上さんの重さを、お前一人の筋肉で受け止めようとするから、そうなるんだ」
ハルは息を切らしながら、振り返った。
「でも、持ち上げないと、井上さんが床に落ちてしまいます!」
「持ち上げるんじゃない。お前の中に、重さを通すんだ」
北条はコーヒーを置くと、ハルの横に並んだ。彼女が井上さんの肩に手を触れた瞬間、場の空気が変わった。彼女の身体からは、微塵の力みも感じられない。まるで、ただそこに立っているだけの、一本の柳のようであった。
自分を「管(くだ)」にする
「よく見ておけ。重力は敵じゃない、味方にするもんだ」
北条は、第1章でハルが学んだ「接地」を、さらに深く、鋭く体現して見せた。彼女の膝がわずかに緩み、腰がすとんと真下に落ちる。その瞬間、彼女の背筋は、天から吊るされた一本の糸のように真っ直ぐに伸びた。
「井上さんの重さを、お前一人のものにするな。お前の身体を”管”にして、そのまま地面に返してやれ」
ハルは、北条の動きを真似てみた。腕の筋肉で引き上げようとするのをやめ、自分の背骨を真っ直ぐな空洞にするイメージを持つ。井上さんの重みが、ハルの肩から背中を通り、かかとを突き抜けて、そのまま床へと流れ落ちていく。
(…あ、軽い?)
不思議だった。井上さんの体重は変わっていないはずなのに、腕の中にある感覚が、泥の塊から「温かい水の袋」へと変わったような気がした。
2つ目の灯火|地球の重石を、味方につける
ハルが、力みを捨て、重力という巨大な流れに身を任せたとき、ベッドの上でこわばっていた井上さんの身体が、ふっと力を抜いた。力対力のぶつかり合いが消え、そこにはただ、二人の人間が一つの重力を分け合って立っているという、静かな調和だけが残った。
筋肉の限界を超えた先にあったのは、地球の引力を利用するという、あまりにも当たり前で、けれど誰も教えてくれなかった「身体の事実」であった。
ハルの内側に「2つ目の灯火」がともる。
それは、重さを「苦しみ」として背負うのではなく、大地へと逃がす道を知った、知恵の光であった。腰の痛みは、いつの間にか消えていた。代わりに、大地とつながった自分の身体が、かつてないほど強固な建造物のように感じられた。
【第2章の残り火】
ハルは、重力という名の強大なエネルギーを味方につけた。しかし、力が抜けたことで、彼女は次の壁に突き当たる。それは相手の肌に触れる「拳」から伝わってくる、あまりにも生々しい命の拒絶であった。
次は、感覚意を研ぎ澄ます第3章「感触」へと続く。
