白紙のデータと、朝の邂逅
「擬制(フィクション)とは、現実の真偽を問わず、システムを維持するために『ある事象を事実として扱う』という社会的合意である」 ―― 擬制論(Social fiction)
午前6時00分。 ナースステーションの窓から、無機質な白い朝焼けが差し込んでいる。 夜勤の男はパイプ椅子に深く腰掛け、モニターで点滅するカーソルと向き合っている。電子カルテの入力画面。一晩の「観測結果」を、システムのログとして保存するための最終工程である。
この16時間、フロアで何が起きていたか。 西日のなかでの暴力的な拒絶。エントロピーの増大によるカオス。不気味の谷の底で咀嚼を続ける自動機械。そして、排泄物を前にして決壊した、男自身の脆く哀れな人間性。 空間には、質量を持った絶望と、生々しい肉体の摩擦が確かに存在していた。
しかし、システムはそのようなノイズ(真実)を要求しない。システムが求めているのは、社会の倫理観を脅かさない、無菌状態で規格化された「記録」だけだ。
男はキーボードに指を置く。 「2:00 徘徊あり。声掛けにて自室へ誘導し、入眠」 「3:00 排泄介助。パッド交換、皮膚異常なし」 「朝食時、むせ込みなく全量摂取」
クリック音とともに、血の匂いも、排泄物の悪臭も、すり減った軟骨の痛みも、すべてがただのクリーンなテキストデータへと圧縮され、漂白されていく。事実がどうであったかは関係ない。テキストとして保存された瞬間、社会的にはそれが「真実」として確定する。
男は最後に、全体申し送り欄のプルダウンメニューから定型文を選択した。
『夜間、特段の異常なし』
エンターキーを押す。 完璧な擬制(フィクション)が完成した。誰も傷つかず、誰も責任を問われない、平和で適切なケアが提供されたという美しい仮想現実が、サーバーの奥深くへ保存される。
男は静かに立ち上がり、モニターの電源を落とした。 その時、ナースステーションの重いスライドドアが勢いよく開いた。
「おはようございます!」
朝の光を背負って、日勤のスタッフが入ってくる。 夜の深淵をまだ何も知らない、澄んだ声だった。新しく支給されたばかりの汚れのない制服。その胸元には『ハル』と刻まれたプラスチックのネームプレートが、微かに光を反射している。
男は彼女を見つめた。 この先で待っている物理法則の暴力や、感情がすり潰される不条理について、警告する言葉を男は一切持たない。愛や希望などという綺麗事を信じたまま、彼女がこれからどれほどの絶望の谷へ落ちていくのかを完全に理解した上で、男は言葉を飲み込む。
男は無表情のまま軽く会釈をし、若い女の横をすり抜けた。 今日というフィクションを終わらせ、また必ずやってくる次の絶望的なシフトを回すため、男はただ淡々と、冷たい朝の廊下へと歩み出した。
(観測_08・終)








