エントロピーの増大と終わらない足音
「孤立系のエントロピー(乱雑さ)は増大し続ける。宇宙のあらゆる事物は、不可逆的に秩序から無秩序へと向かう」 ―― 熱力学第二法則(dS ≥ 0)
覆水は盆に返らず、熱いコーヒーは冷め、整理された部屋は必ず散らかる。 秩序ある状態から、カオスへ。 それは逆行することのない、宇宙の絶対ルールである。
深夜2時。 特養の長い廊下を、スリッパの擦れる音が等間隔で進んでいく。 認知症の老人が、自室のタンスからすべての衣服を引きずり出し、床一面にぶちまけた後、あてもなく暗いフロアを歩き回っている。 現場ではこれを「徘徊」や「不穏」と呼ぶ。
夜勤の男は、ナースステーションのモニター越しにその足取りを観測している。 なぜ寝ないのか。なぜ散らかすのか。 介護の教科書は「本人の不安を取り除き、寄り添え」と説く。
だが、物理学のレンズを通せば、老人の行動は「宇宙の法則への完全なる同調」に過ぎない。 人間が「衣服はタンスに四角く畳んでしまうもの」「夜はベッドで静かに寝るもの」と決めたのは、社会を維持するための極めて不自然な「秩序(低エントロピー)」である。老人の脳内でその社会的な不自然さが剥がれ落ちたとき、肉体はただ自然の摂理に従って、状態を「乱雑(高エントロピー)」へと解放しているだけだ。
散らばったパジャマ。意味を持たない歩行。 それは病気ではなく、エラーのない物理現象である。
ここで「早く寝てくれ」と願うから、疲労する。 宇宙が乱雑さを増している現象を、人間のちっぽけな道徳や常識でコントロールしようとするから、心が摩耗するのだ。 老人の行動は、エントロピーの増大という宇宙の仕様通りに実行されている。
男は、モニターの明かりの中で冷めたコーヒーを飲み干した。
散らかった服を拾い集めることは、宇宙の法則に逆らって、再び不自然な秩序(整理整頓)を構築する行為だ。それには莫大なエネルギーを要するし、明日になればまた必ずカオスへと戻る。完全に無意味な労働である。
しかし男は、ナースステーションのパイプ椅子から静かに立ち上がった。 意味がないことは分かっている。そこに希望も、やりがいもない。
男は無表情のまま、終わらない足音が響く薄暗い廊下へと歩み出す。 散らばった布切れを拾い集め、乱雑さを元の状態へ押し戻すという、永遠に続く徒労のシステムを回すために。








