蓄積なき円環のレイバー
「労働(Labor)は、人間の肉体の生物学的過程に対応する。生産されたものは即座に消費され、世界に何も残さない」 ―― ハンナ・アレント
建築家が図面を引く。橋が架かる。後世に残る。 プログラマーがコードを書く。システムが動く。世界が変わる。 これらは「仕事(Work)」と呼ばれる。物質としての価値を世界に蓄積していくその営みに対して、資本主義は相応の敬意と対価を支払う。
一方で、垢を落とす。排泄物を拭く。飯を食わせる。 これらは「労働(Labor)」と呼ばれる。世界に何も残さず、ただ生命を維持するためだけに、その日のうちに消費され、消滅する。
視点が、マクロな社会構造から、極小の密室へと強制的に引き下ろされる。 13時40分。特養の浴室。室温28度、湿度90%超。
「冷たい、殺される!」 車椅子に全裸で固定された82歳の老人が、怯えたように肩をすくめ、叫んだ。 湯気でふやけた皮膚は、重力に従って薄く垂れ下がっている。
介護職員の女は、ビニールエプロンの下で自身の肌着が汗に濡れるのを感じながら、ただ無言で老人の背中にソープを滑らせる。 そこに感情はない。 自己メンテナンス機能を喪失した有機体を、社会の公衆衛生という規格内に適合させるための、ルーチン化されたクレンジングの儀式。白くふやけた角質が、泡に混ざって床のタイルの目地を這い、排水溝へと吸い込まれていく。
この場所では、何も蓄積されない。 今日、どれほど完璧に洗い上げようと、どれほど優しい言葉をかけようと、明日にはまた同じ分量の角質が生成され、同じ分量の拒否が再生される。消費されていくのは、洗われる側の寿命と、洗う側の椎間板の軟骨だけだ。
「帰る……もう、上がる……」 老人が濡れた手でシャワーのホースを掴み、引っ張った。 洗わなければ、皮膚は感染症を起こし、生体は崩壊を始める。しかし、老人にとっては、今浴びせられる温水も、目の前の女の手も、自分のテリトリーを侵食する不条理な暴力でしかない。
女は、ホースを握る老人の指を、一本ずつ静かに外していく。 憤りも、哀れみもない。ただ、目の前でシステムが仕様通りの拒否反応を示している。女の頭の中には、あと4人の「洗うべき肉体」が待機しているという、無機質なカウントダウンだけが点滅している。
この不条理な永久機関を止めるボタンは、どこにもない。 すべてが徒労であり、明日にはまた元通りに汚れることを完全に理解した上で、女は再びシャワーのノズルを老人の足元に向けた。
お湯が床を伝い、渦を巻いて暗い穴へと吸い込まれていく。 濃厚な湯気の中に残されているのは、タイルに跳ね返る規則正しい水音と、ただ淡々と次の部位へとブラシを動かす女の、濡れた足音だけだった。








