西日のなかのシステムエラー
「人間の不幸は、部屋にじっと一人で座っていられないことから生じる」 ―― ブレーズ・パスカル
夕方16時15分。 特養の302号室には、西日と一緒に、重い沈黙が差し込んでいた。 居室のカーテンの隙間から、傾いた光がベッドの上のリネンを白く照らしている。
介護職員の男は、84歳利用者の老人の前にかがみ込み、パジャマのボタンに手をかけている。その老人の左腕は、脳梗塞の後遺症で胸元に硬く巻き込まれている。その袖を通すために男がわずかに力を入れた瞬間、老人の口から「痛いがな、バカ野郎」と、かすれた声が漏れた。 男の制服の背中は、すでに冷や汗で張り付いている。 頭の中で、次のオムツ交換のスケジュールが秒読みの音を立てる。 焦りと、微かな怒りがシステムに負荷をかける。
なぜこの老人は、ただ服を着るだけの行為に抗うのか。
同じ時間、スマートフォンの画面の向こう側では、一振りのバットが風を切っている。 ただ、革の球を、木の棒で遠くへ飛ばす。その男の年俸を1日あたりに換算すると、目の前で痛がっている老人の生涯年収を遥かに超える。あるいは、画面の中で電子のキャラクターを銃で撃ち合う若者が、その実況だけで、この施設全体の年間予算に匹敵する金を稼ぎ出している。
世界は、球遊びや画面の点滅に天文学的な富を注ぎ込む。 人間が最も恐れるのは死ではなく、死ぬまでの退屈だからだ。人々は自らの退屈を忘れさせてくれる「忘却の装置」には喜んで財布を開くが、いつか自分も迎える「老いと衰え」という冷酷な現実の維持には、1円でもケチろうとする。それが、この星の経済の、エラーのない仕様である。
「痛いがな」 老人がもう一度、今度は男の手を振り払うように言った。 服を着なければ、夜の間に体温が下がる。皮膚が擦れて傷になる。生体を維持するためには、この布を体に巻き付けなければならない。 しかし、老人にとっては、今この瞬間の不快と、目の前の男への抵抗だけが、自分がまだ生きていることの証明なのだ。病気とか拒否じゃなくて、これがこの老人の、死ぬまでの必死の「暇つぶし(気晴らし)」。
男は、振り払われた自分の手を、ただ見つめている。 怒りも、焦りもない。ただ、目の前で間もなくシャットダウンする旧式のハードウェアが、仕様通りの書き込みエラーを吐き出している。それだけの物理現象が、静かな部屋に横たわっている。 完璧に着せる必要なんてない。布が巻いてあれば、それで合格だ。
世界の不条理を正す方法を、男は知らない。 この老人の頑固さを治す薬も、自分の薄給を上げるボタンも、どこにも存在しない。明日も明後日も、この無意味な抵抗と着替えのループは続く。
西日が、ゆっくりと床を移動していく。 男は無表情のまま、もう一度、パジャマの袖を広げた。 部屋の中には、サビついた関節の動く微かな音と、ただ淡々と次のボタンに手を伸ばす男の、静かな呼吸の音だけが残されていた。
パジャマのボタンは、一つ、ズレていた。








