先日、Aさんのお宅で、こんな会話があった。
Aさん:「訪問マッサージを頼もうと思ったんだけど、やっぱり辞めたよ」
自 分:「どうして?」
Aさん:「知らない人を家にあげるのは怖いからな。何をされるか分からない」「人を見たら泥棒と思えって言うじゃろ」
自 分:「・・・」
この会話を聞いて、浮かんできた言葉がある。
「性善説と性悪説」である。
この概念は、簡単に言えば以下の意味になる。
『性善説』〜 人間は元々「良い人」である。
『性悪説』〜 人間は元々「悪い人」である。
そういえば前の職場でこんな事があった。
新人さんが入ったので、その敎育係としてB君を指名した。
B君は一生懸命指導してくれていたのだが、新人さんと上手く噛み合わない。
数日後、B君がこんな事を言ってきた。
「いくら教えても出来ないし、やる気がないんだから、彼に教えても無駄だと思います」
さて、ここである命題が浮かんでくる。
その命題とは、
『出来ない新人に対し、どこまで指導を続けるか』である。
これはとても判断が難しい。
どのレベルまで求めるのか、いつまでに達成させるのか。
そして誰がその最終判断を下すのか。
大企業なら到達目標や達成度合いを測るマニュアルが存在するのかも知れないし、試用期間もあるだろう。
しかし殆どの企業では、その時に出会った「上司」の資質に左右される。
さじ加減一つ、相性一つ、新人の運命はたまたま出会った上司に委ねられているのだ。
さて、自分がその「上司」だったらどうするのだろう。
どこまで指導を続けるのだろう。
見切りをつけるタイミングに悩んだ時...、そんな時は必ず妄想してみる。
『もし、指導者が自分じゃなかったら、この新人さんは伸びるんじゃないだろうか』
『昔、尊敬してたO先輩だったら、この新人さんを上手く育てる事が出来たんじゃないだろうか』
『経営のカリスマ、松下幸之助さんだったら、全然違った新人教育をするんじゃないだろうか』
出来ない原因は何なのか。
やる気が出ないのは何故なのか。
本人の問題なのか、それとも教える側の問題なのか。
「出来ない人間にいくら教えても無駄」という『性悪説』をとらず、
自分は『性善説』をとりたい。
目の前の相手は「仕事もできる」はずだし、「やる気もある」はずなのだ。
それを引き出せてないのは、こちらの能力の問題だと考えたい。
でもこんな話をすると「理想論」だと否定される。
確かに実際行なうと、出来ない相手にイライラしてしまうし、
時に、胸が痛くなって投げ出したくなる…
それでも…『性善説』で仕事をしたいと思う。