「この人は、なぜ生きているんだろう」
寝たきりになり、言葉を失い、自分の名前さえ忘れてしまった利用者を見て、そう思ってしまう瞬間はないだろうか。
現代社会は、人間を「仕事が出来るか」「役に立つか」という生産性(コスパ)で測る。この物差しで見れば、介護が必要な人は、「マイナスの存在」に見えてしまう。
だが、それは人間が悪いのではなく、社会の側に重大な欠陥がある。精神科医師フランクルが、ナチスの強制収容所という極限状態で突き止めた「人間の正体」を読み解いてみる。
石ころに「命」を吹き込むのは、あなたの「観測」だ
あるおばあさんが、道端の石ころを「寒いだろう」と拾い集める。周りは「認知症の異常行動だ」と片付けるが、量子力学の支点でみれば、全く別の景色が見えてくる。
その石は、彼女に拾われるまではただの「物体」だった。だが、彼女が「寒いだろう」と温かいまなざしを注いだ瞬間、石は「守るべき大切な存在」へと現実が確定した。
「意味があるから拾うのではない。彼女が拾う(観測する)ことで、そこに意味が誕生したのだ」。
介護も同じだ。
利用者が「自分は石ころのように無価値だ」と絶望しているなら、あなたがその人を「かけがえのない存在」として観測し続けること。それだけで、その人の存在は物理的にこの世界につなぎとめられる。

「役に立つ」という思い込みをごみ箱に捨てる
フランクルの教えは鋭い。
「人生に対して何を期待するかではなく、人生から何を期待されているかが問題だ」。
「何ができるか」で人間の価値を決めるのは、人間を単なる「機械」として見ている証拠だ。人間は、「存在しているだけで、周囲に影響を与えるエネルギー体」である。
例え寝たきりの人でも、その人がそこに居るだけで家族が団結したり、職員が優しくなれたりする。それは立派な「価値」だ。
「役に立たないから意味がない」という考え方は、単なる計算ミスに過ぎない。
フランクルの「最後の自由」を使いこなす
フランクルは、全てを奪われた収容所でも、誰にも奪えない「最後の自由」があると言った。それは、「どんなに最悪な環境でも、自分の心の態度は自分で決められる」という自由だ。
「歩けない」「話せない」という不自由な環境(構造)の中でも、その人がどう笑い、どう苦悩と向き合うか。その「態度」こそが、その人の人生の完成度を決める。
私たちの仕事は、歩かせることだけではない。その人が「最後の一瞬まで自分の人生の観測者であること」を支えることなのだ。

「どんなに最悪な環境でも、自分の心の態度は自分で決められる」という自由がある
介護とは「存在の消滅」を防ぐ仕事である
人は、誰からも必要とされず、誰からも「意味」を見出されなくなったとき、精神的に消滅を始める。
介護職の本当の専門性は、おむつを替えるスピードではない。「あなたの存在には意味がある」と、まなざし(観測)で固定し続けることだ。
言葉の出ない利用者の手を握り、「今日もそこに居てくれてありがとう」と心の中でつぶやく。その瞬間、あなたは「生産性」という冷たいルールをぶち壊し、フランクルの哲学を現場で体現する。

