介護現場の夜、静寂を切り裂くように鳴り響くナースコール。
そのボタンを、手慣れた動作で利用者の手の届かない場所へ隠す職員がいる。あるいは、ナースステーションの受信音を、一片の迷いもなく消し去る職員がいる。
そこには葛藤も罪悪感もみじんもない。彼女らにとって、それは「業務を円滑に回すための合理的な手段」であり、一種の「サバイバル技術」ですらあるのだ。
一方で、その光景を目の当たりにし、言葉にならないほどの罪悪感と怒りに身を震わせる職員がいる。
この二人の間に横たわる、決して埋まることのない溝。それは介護現場における「性善説」と「性悪説」が真っ向から衝突した、むき出しの現実である。
合理性という名の免罪符
ナースコールを隠す者は、多くの場合、自らの行為を「悪」だとはみじんも思っていない。
「こうしないと他の業務が終わらない」「この人は呼んでも用事がないから後回しでいい」。
そんな自分勝手な正当化の積み重ねが、彼女らの心を厚い皮膜のように覆っていく。
マニュアルを厳格化し、形ばかりの倫理研修を重ねたところで、この強固な「確信」を揺るがすのは容易ではない。
なぜなら彼女らの優先順位は、利用者の「安全や安心」ではなく、「いかにストレスなく、自分のシフトを定時で終えるか」という一点に置かれているからだ。
怒りを感じるあなたが、正しく機能している
もし、あなたが同僚のそんな姿を見て、吐き気を催すような怒りやモヤモヤを感じているなら、それはあなたがまだ、人間に対する「性善説」を捨てきれていない証拠だ。
「助けを求める声には、誠実に応えるべきだ」
この、人として最も根源的で尊い感覚を持ち続けているからこそ、同僚の振る舞いが「耐え難い裏切り」として映るのである。
その怒りは、あなたがプロとして、そして一人の人間として、まだ「死んでいない」ことを明確に示している。
現場という名の「混ざり合わない水」
一つの施設の中に、この「スッキリと確信犯的に隠す人」と「モヤモヤと憤る人」は、残念ながら必ず共存してしまう。
確信犯を正論で変えようとすれば、あなたはさらに摩耗し、絶望の淵に立たされるだろう。彼女らには、他者の苦痛を遮断することで自分を守る、冷静なまでの「性悪説的な生存戦略」があるからだ。
今、あなたがすべきは、彼女らを矯正するために貴重なエネルギーを使い果たすことではない。
自分の境界線を死守せよ
最も大切なのは、彼らの冷たさに感化され、あなた自身の「震える感性」まで放り出してしまわないことだ。
「私は、あちら側へは行かない」。
そう心に深く刻み、自分の仕事の純度を保ち続けること。周囲がどれほど冷笑的になろうとも、一人の利用者のコールに耳を澄ませ続けること。
その孤独な抵抗こそが、荒廃していく現場の空気を、かろうじて人間的なものへとつなぎ止める「最後の砦」になる。
答えは出ない。だがその罪悪感は誇っていい
ナースコールを隠す者は、一生「スッキリ」と効率的に仕事を終え続けるかも知れない。対してあなたは、一生「モヤモヤ」と、やり場のない怒りと無力感を抱え続けるかも知れない。
だが、どちらの人生がより「豊か」であるかは、言うまでもない。他者の叫び(コール)を遮断して得る偽りの平穏と、叫びを受け止め、共に苦悩する日々。
あなたが抱えるその重いモヤモヤこそが、あなたが「血の通った人間」であることの、何よりの証明なのである。